練習はしないけどレッスンはやめたがらない娘と妻の物語り

★ぱぱにっき

我が家の娘は年長から約1年半ほど前からYamahaの音楽教室を通っています。

まあ、僕としては教養程度でやらせているつもりですのでガリガリやらせるつもりはまったくなく、 自分の好きなペースでやれば良いと思っていましたので、今までほとんど口出ししないでいたつもりでしたが、 練習はやらないのにピアノは続けたいと言う娘と、練習もしないままレッスン費を払い続け、 無駄にお金をダダ漏れさせている現状にいらいらし練習を強要してしまう妻と娘の心理バトルを 幾度も観戦してきました。

最初は投資した分、ピアノ(その他の習い事も)をある程度のレベルまでモノにしたい意欲も強く、 バトルも頻繁に起こっていたのですが、最近は妻が根を上げたか、気持ちを入れ替えたか、 バトルはせず、傍観しつつ様子をみて切りのいいタイミングでやめさせるつもりでいる様子です。

僕からみたら深刻なバトルに発展しそうな感じには見えなかったので、 あまり真剣に考えることもせず、妻に任せぱなしにしておりましたが、 妻の諦念?達観?した様子が気になり、この問題を分析してみることにしました。

  • 娘、ピアノの練習はしたくない? 
  • 娘、レッスンはとりあえずつづけてたい 
  • 妻、レッスンに行くならちゃんと練習してほしい 
  • 妻、せめて練習する姿勢でもみせてほしい

ふむふむ、、、正直、僕からみると娘がほんとうに練習がしたくないか別の理由があるのではないか、 正直言って疑問です。

責任感がそこそこ強いせいなのか、せめてレッスン前の日は○○だけはやろう~と約束したら、 いやいやながらも自らピアノに座り練習しようとします。 しかし、時にはピアノの前に座りじっとピアノを見つめるだけで弾こうとしないときもあります。 見てると娘の気持ちが手に取るほど伝わります。

練習をしていなかったため、当然、練習でうまく弾けるはずがありません。 うまくできないとイライラします。明らかにネガティブな感情です。 そんな感情になるべく出会いたくないものです。

「それ(つらい練習?)を乗り越えた先にできた喜びが待ってる」と思い練習ができるのは、 考え方が成長したから、先のことが見通せるようになったからであり、 まだ、そこまで成長できていないうちは“いやなものはいやなもの”です。

わざわざ、練習をはじめてそんないやな感情と向き合いたくはないものです。

なのに、“そこまで練習がいやならやめたら?”と聞くと、“やめたくない”と答えます。

妻の普段の接し方を考えると、そう答えるだろうなと思います。 常識をあえて度外視している僕とは違い、妻は僕よりははるかに常識人です。 

妻にとって“やり遂げること”は美徳です。 

反対に途中で投げ出す行為は叱るべき行為、つまり常識外のことになります。 そう言った社会通念というものは社会生活をする上で大事なことですので、それを否定するつもりはありません。 なので、娘も練習はしたくないけど、自分からやめることはしたくないはずです。

練習をしないまま将来レッスンがどんどんつらくなると、 途中で投げ出したくない責任感よりつらさが勝ったら、いつか自分から“やめたい”と言ってくるでしょうけど、 娘が如何に練習もせず、上達しなくても、Yamahaの先生が全部受け入れてくれる優しい先生なら、 おそらく、このまま5年生、6年生になっても練習もせず続けたがることもありえると思います。

このように“責任感”の強い子に育ててくれたのも妻(母親)のおかげです。

しかし、今回ばかりはこの二つの要因が見事とに妻の思惑と拮抗してしまう形として現れたわけであります。

実は、妻と娘のバトルをみて、僕は“いやならやめたら?”と思ったことがありました。 僕の“いやならやめたら?”はなんの責任感も、それに対する自分自身への嫌悪感もないまま、 自分の気持ちに純粋に従うことを意味してましたが、 妻は、やめるならやめるんで、ちゃんとケジメをつけたがらせていたみたいで、 それは見事に娘の考え方にインプットされて、それ以後は同じ質問に大して、 娘はいつも決まって“やめたくない”と答えてきています

なんだけど、相変わらず練習はしてくれません。今度は妻が困ってきました。

練習しないなら、お金がもったいないし、やめてもいいかと思うようになったのに、 娘のほうが“やめたくない”と言っているんだから…、まあ、そうさせたのは妻本人だけど、 気がついているのかな?!?(笑)その他にもいろいろな理由はあるにせよ、娘の事情はだいたい以上のようなことかと思えてきました。

妻の事情はすごっく常識的なことなのでわかりやすいのです。

“レッスンに行くならちゃんと練習してほしい”、たしかにレッスンは練習する場ではありません。 練習をして先生に指導を請う場所です。練習もせず、レッスンに行くことはお金も勿体ないが先生に対しても失礼に当たることでしょう、、、が、それは全部大人の都合でしょう。

子どもにそこまでの意識(大人の都合的な一般常識)があるか疑問です、そもそも自分で稼いだお金でもないし(もったいない概念も薄く)、 練習と指導の違いすらわからないはず、、だと僕は思います。

大人の常識を当てはめて強制しても効果が薄いか、むしろ反発心だけ助長させるかと思います。

反面、素直な子どもは育てやすいんですね、強制されても強制だと思わず従い、 反発心もなかなか起こらないから親が楽かも知れません。 しかし、僕は子どもが素直であればあるほど、反抗期に親が手こずることになるかと思いますけどね。 そう、素直な子どもほど、世の中の事情をキャッチできたとき、そのギャップが受け要られず、 今まで疑問に思わず受け取ったすべてのことに対して悉く反発するようになります。

妻は、練習しないから、指摘されることが増え、指摘されたり上手くできないと嫌になり、 嫌になるとさらに練習をしなくなると思っているらしいです。

ある意味、それは“正しい”です。 
王道で真理でしょう。

なので、妻は、最初は無理にでも少しずつ練習をして、指摘されなくなり、 褒められるようになると、練習が嫌でなくなり、自ら練習するようになると思ったみたいです。 今もそう思っているかどうかはよくわかりません。 これも有る意味、全然間違っていません。

大人が自分の悪い習慣を直すならいちばん手取り早く正しい方法です。 悪い連鎖はどこかを断ち切る必要があります。上記の場合、“練習をすること”でしょう。 練習をすることで、状況はよい方向へ良い方向へと向かっていき、 いつかは悪い連鎖から良いサイクルへ変って行きます。 しかし、大人の場合、自らの覚悟や意思で、いやでも“練習をすること”で、 悪い連鎖を断ち切ろうとすることができるのですが、 そんな方法に気づいてもない子どもが自らの意思でもなく、 他意によって強制された気持ちで、その連鎖のくさりが断ち切れるのでしょうかね。 疑問です。

最初の問題点にもどって、娘はなぜ、ピアノの練習がいやなのでしょうか。 上ではうまく弾けないことにたいしてイライラしていまうことが嫌だろうと書きましたが、 そもそも、なぜイライラしたり、いらいらすることが嫌なのでしょうか。

それは数日前の妻と娘の練習光景からそのヒントが見えました。 

以前、練習をいやがる娘に怒りながら教えていた妻に、“娘が間違うたびに直されたり怒られるから練習が嫌になるんじゃない?”とアドバイスしたことがあります。

それ以後妻は、なるべく怒らず、すぐに指摘せず見守る、ように頑張ってきた様子です。 しかし、娘の練習忌避は一向になる気配はみえず、焦ってはいても、 怒らず見守るをほんとうに頑張っていました。

数日前は、娘が自らの意思(おそらくピアノの練習の約束かな)でピアノの前に座り練習を開始しました。

うまく弾けないのでしょうかね、隣に来て欲しいと妻(母親)を呼びました。

母親を呼んで隣に座らせても何も解決されるわけないのに、 うまく行かないイライラをなんとかしたかったのでしょうね。

そういう時は、とにかくとりあえず、母親を求めることが子どもなのです。

妻は最初は口を出さず娘の隣に座り練習を見守ります。 

母親が隣に座ってみてるから急にうまく弾けるわけがありません。

練習不足によりできないところはできていません。娘本人はどうすればいいのかわかりません。

妻は見るに見かねて、こうこうするんだよ、ゆびはこうこうして、おんぷをちゃんと読み、、、 練習をしていないので、妻の指示についてうまくついていけるわけがありません。

言われたまま弾くこともできません。さらにいらいらして、結局、手を止めます。

妻はできないことは当たり前で練習しない限りできるようになりゃしません。

せめて、手を止める(練習を止める)ことはやめてほしいと思い、投げ出しの態度にイライラしてしまいます。

けれど、感情的に怒るまいと思い、練習を切り上げ、席を立ちます。

結果的に練習をやめているように見えちゃいますが、娘はうまく弾けないから手を止めただけで、 練習をやめたわけではありません。

母親が怒るまいと思いと練習を切り上げさせられたことも、 うまく弾こうと思って練習したのに、うまく弾けなくて、練習ができなくなるほどいやな感情状態になったわけです。

つまり、そんないやな感情状態になる“練習”そのものが大嫌いなわけです。

思うに体が条件反射的に、“練習”→“負の感情状態”を思い起こして、 行動が起こしにくい状態に陥っている様子です。

体が覚えてしまった条件反射はなかなか治すことがしんどいですが、治せないことではありません。

やり方は、反対に“練習”→“喜びの感情状態”を身体に覚えさせればいいのです。 

妻というかすべての人が陥りやすいことに、練習はすなわち、結果を目的にすることだと思うところです。

練習を上手になるための必要な努力だと思い込んでいるのです。

半分正しくて、半分間違っています。

つまり、結果を出すために練習をするわけだから、練習で何かを得るために躍起になります。

今日のピアノは○○の曲を弾いてみようね、弾けるようになったら上手に弾けるように練習しようね、、、 などなど、成長を目標にした練習に躍起になると、それより重要な“感情”を置き去りにすることがあります。

このような状態では、まず身体に“練習”=“楽しいこと”であると思い込ませることが先です。

間違いを直したり、より上手になるための練習はその後の段階の練習です。

例えば、妻が娘の好きな流行の曲を練習して“練習”と称して、弾いて一緒に歌ってもらうとか、 娘自身は歌うだけでも、その時間を“練習”だと称した以上、練習の時間は楽しい思い出になります。

すでに沢山の負の感情が溜まってしまっている状態なので、簡単ではないかもしれませんが、 娘が知っている範囲で“ピアノの弾き方を教えて”と僕からお願いしたり、 家族全員で、ピアノを使うイベントを考えてみたり、とにかくとりあえず、教えることからいったん離れて、 “ピアノの練習は楽しい時間”ということを無意識に刷り込ませることが必要だと思います。

長文になりましたが、我が家以外にお子さんがピアノの練習もしないのにレッスンをやめたがらない家庭も ほかにあるかと思いやや真剣に書いて見ました。