鶏(ニワトリ)と卵(タマゴ)のどちらが先なのか

★ぱぱにっき

この「鶏が先か、卵が先か」は人類最大因果性哲学的問題のひとつであるし、現実において多くの人には「どうでもいい問題」のひとつでもあります。

※この問題については数学的かつ科学(進化論)的な側面からは「卵説」が有力

都内で生活するメリットとリスクは、親の収入や子どもの教育環境などいろんな場面で現れます。私の職種の場合、都内でなら上手くすれば今の1.5倍の収入を見込むことも可能であろうと、その収入で娘により質の高い教育環境を与えることも可能であるし、それこそ一家の大黒柱としての使命であるのではとも思えました。

都心と田舎の一人当たりの平均収入が2倍近くの格差が現れている現実問題、子どもを田舎で育てることは子どもの未来において、親としては娘に相当なハンディを課してしまっていることにもなり得ます。そもそも、娘の勉強も今の暮らしもすべて幸せのためであります。

多くの親は自分自身の子供に、

良い成績→良い学校→良い職種→良い暮らし→・・・→子どもの幸せ

最終的には子どもが幸せに生きてほしくて勉強をさせていると思います。

しかし、果たして「幸せな暮らしで幸せになる」のでしょうか?もちろん、「だったら、苦しい暮らしで幸せになりますか?」と聞かれたら、確かに、「それは無理があるでしょう、、、」と僕も答えるしかないでしょう。

そう、大多数の人は「正の説」が不確実でも、「反の説」が直感的に確実だから、勝ち組になって経済的に豊かに生きることが、幸せになることに何らかの役に立つことだけが「確実」であるだろうと漠然と思って我武者羅に頑張って生きている気がします。

もちろん、それで何らかの幸せを掴んだ人もいると思いますし、そのような生き方が間違っているとは言いませんが、僕自身の幸せの結論は、

「幸せな暮らしで幸せになる」ではなく、
「幸せに暮らす事が幸せである」です。

結局、「鶏が先か、卵が先か」のどうでも良いことかもしれませんが、目的がはっきりにしない限り、到達できる確率はぐんと下がることです。

幸せになるためのことを100個やって、どんなものかわからない幸せが訪れることを口を開けて待つよりは、目の前の10個の幸せを食べるために10個の努力をした方が、はるかに効率的です。

勉強も同じで、ゴールが明確でないと、ただ我武者羅に勉強してもいけるところは高が知れています。目標を明確にして、そこに辿りつく道筋を立てて効率よく勉強して、振り返り、道筋を修正してより効率的な道順を考えて、ある意味、勉強の中身(試験の成績)よりも重要な学習かも知れません。


手元において、重要な箇所はプリントして手帳や日記に貼りたい。
親と一緒に読み子どもに教える「子ども版“7つの習慣”」でちょうど良い。